一粒の麦も死なずば・・・
「一粒の麦死なずば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」という言葉が聖書にある(あるそうです)。
意味は「麦が自分一個にこだわって死ななければ、それはただの一粒の麦にすぎない。しかし、土の中で死ねば他の多くの実を生ずる」ということです。
私がこの言葉を知るきっかけは、童門冬二氏の「小説吉田松陰」を読んだことです。この小説の中で、吉田松陰が死を迎える(処刑)に当たって、生涯を振り返り考えた言葉として以下のことを紹介しています。
「十歳で死ぬからといって、決して長い将来を無くしたわけではない。十歳のものは十歳の者の四季(春夏秋冬の四季)がある。そしてそれは花を咲かせて種を残していくのだ」
「わたくしは三十にして実をつけこの世を去る。それは単なる籾殻なのか、あるいは成熟した米粒なのかは分らないが、同志がわたしの志を継いでくれるなら、それはわたしが蒔いた種が絶えずに穀物が年々実っていくといっていいだろう。そうなれば、私も残った者に収穫をもたらしたということで、恥じる気持ちがなくなる。同志よこのことをよく考えてもらいたい」
童門氏は「松陰が聖書のことを知っていたとは思えない」と書いています。
洋の東西を問わず、偉人・賢人は同じような言葉を残すのだと感じました。また同時に、若くして亡くなっていった神経・筋難病の人たちのことが思い出されました。彼らに作業療法士として種を残す手伝いができたかどうか分りませんが、日本作業療法士協会で仲間と共に実施している障害児・者へのIT活用支援者育成事業が、私の残された仕事だと感じました。
松陰は松下村塾の塾生に次のようなことも言っていたそうです。
「ぼくは師でもなく、きみたちは弟子でもない。きみたちとぼくは常に互いに学び合う関係にある学友である。ぼくがきみたちに教えることもあれば、きみたちがぼくに教えることもある」
今、学生さんたちを教える立場になり、このことを実感しています(田中勇次郎)。